In(verses) Ways

Review by 上西エリカ

In(verses) Ways

このプロジェクトは、私の旅に想を得ている。その旅路は日本~ブラジル~日本である。
最初の日本は、私の母や家族、古い写真、歌い継がれた歌や語り継がれた昔話を通してしか知ることのできなかった地で、やや空想的である。それは、私が幼少の頃に、想像世界で見ることのできた実在(非在)の場所、そして我が家の家名と容姿にしか顕在しない場所。
第2の旅であるブラジル~日本は、私自身の目や生活を通じて実際に経験した現実。この旅で、最初の地である日本に戻ってくる。日本は私のルーツが潜んでいる国。我が家の歴史をさかのぼることで、自分探しや私の道の探求を試みている。
この旅の途中で、ポルトガルの詩人 フェルナンド・ペソアの詩『あらゆる道があらゆる場所へと通じる(Qualquer Caminho Leva a Toda a Parte)』(1921年)に出会った。この詩の中でペソアは、全ての道は私たちの中にあり、いずれの道もあらゆる場所へと通じ、また、いつ何時でも道 が別れたり、分断したりするものなのだと言っている。どんな方角も、どんな距離も、どんな終わりも、私たちにある。

edo map

あらゆる道があらゆる場所へと通じる
あらゆる道が
あらゆる地点で二つに分かれ
一方は路が指し示すところへと通じ
もう一方は孤独なものである。
一方の路は、その単なる路の果てへと続き、
路が終わったところで止まる。
もう一方の路は抽象的な余白である
[…]

ああ! それらの道は全て私のなかにある。
あらゆる距離、方向、あるいは果てが
私に属し、私である。残りは、
外の世界と私が呼ぶ、私の一部分である。
だが道は神の業によって分岐する
私がそうであるところのものと、私にとっての他なるものへと
[…]*

翻訳者: 福嶋 伸洋

ペソアのこの詩に従い、空想(私の過去)と現実(私の現在)の融合を試み、そして、絵の中で交差させる。 私の空想の日本を表す200年前の日本の古い江戸地図を分割し、切り取り、切り離し、私の目指す方向へと生まれ変わらせる。幼い私が抱いていた絵的イメー ジを具現化し、存在しないはずの道を歩いたり、家に入ったり、表札を見たり、川を船下りしたり・・・。それは自己を認識するプロセスであり、過去へ戻り、 新たな現実を生み出すことを試みるものである。
イタロ・カルヴィーノの『マルコ・ポーロの見えない都市(Le Città Invisibili)』(1972年)についてウェルシュは次のように語っている。
「・・・目の届かない都市、自己を超越した都市―― そのような都市は目に見えない。自己の中にある都市のみが本当に知覚できる。というよりも、知覚できる都市のみが自己の中に“象徴”される都市なのだ。(ジョン・ウェルシュ、ヴァージニア大学)」
そのため、私が幼い頃の空想の国は私の現在へと還り、私の中にある。ペソアの詩にあるように私の道を歩き、そして日本~ブラジル~日本の旅はひとつとなる。時や空間の制限もなく。

 

上西エリカ
2007年11月

——————————————————————————————————————–
Review by 金澤 毅

 

金澤 毅
美術評論家

笠戸丸が最初の日本人移民をサントス港に運んで、今年でちょうど100年になる。
ブラジルは今や日本以外で最も多くの日本人が住む国となり、その数も130万人に達した。一世時代の日本人社会は、暗く悲しい物語に満ちた農業と商業が主 流であったが、二世、三世と世代が下るに連れ、高等教育を受けた彼らは次第にブラジル社会の隅々に浸透するようになり、政治、経済、学術は基より今日では 文化領域の最も奥に位置する芸術界にも専門家が誕生するようになった。
ラテンアメリカ諸国の中で、最も広大な国土を有し、農産物や鉱石などの生産国として知られていたブラジルではあったが、これまで芸術文化の面ではアルゼン チン、メキシコに水をあけられていたのが実情であった。しかし、1951年にスタートした“サンパウロ ビエンナーレ”は、回を重ねる毎に、芸術後進国のブラジルに大きな収穫をもたらし、今日、ラテンアメリカ美術を語るとき、ブラジルがその筆頭に上げられる ようになったことは誰も否定できない事実である。
ブラジル国内での芸術文化が話題になるとき、これまでは常にリオであり、サンパウロであった。近年、首都ブラジリアや南の大都会ポルトアレグレが、注目を 浴びるようになってきたが、その後を追って実力をつけてきたのが、今回の主人公、上西エリカが活躍するクリチーバ(パラナ州都)である。彼女は、サンパウ ロ州に次いで日系人が多いパラナ州のロンドリーナ市で育ち、高校卒業後に一時来日して陶芸を学んだが、その後再びブラジルに戻って、本格的な美術教育を受 けるため、パラナ州立大学美術学部に入学した。同学部を無事卒業した上西は、今度は我が国の文部科学省の留学生として再来日し、現在は日本大学芸術学部の 院生として、映像表現について研鑚を積んでいる。

上西作品の特徴的傾向は、文字によって構成していく画面である。形態としては、大体がシンプルなフォルムを持った抽象であるが、それらは重複したり拡散し たりしながら次第に有機的な形を持った連鎖状態になっていく。一見、曲線によって連続する色面だが、近づいて良く見ると、驚いたことにこれらはボールペン やカラーインクをペンで書かれた文字であることが分かる。きっちりと書き込まれた文字の配列は、ただならぬ緊張感と職人芸を思わせる高度な技術力を見てと ることができる。この線描から成り立つ技法から言って、この作品は「ドローイング」と分類していいであろう。しかし、此処で言う線描とは、単なる線ではな く、「文字」である。作家は表現の出発点を、文字に置いているところが大きな特色である。文字は思想を宿し、詩情を表現する。彼女が好んで使う文字は、ブ ラジル人詩人カルロスドルーモンアンドラーデやの詩文であるが、時には「私」というポルトガル語を限りなく連記することもある。
上西は日系3世だが、高校を出たばかりの頃、東京に3年ほど住んだことがある。その頃の印象を語った中に、こんな一文がある。

「ブラジルにいる日系人は、自分達は日本人であると思っているが、10年前日本にきた時、私は姿かたちだけが日本人であることを知った。」
これは外国で生まれ育った日系二世、三世全てに共通する想いであり、悩みでもある。外見的には父母の国の民族的特徴を備えてはいても、文化的、精神的には 生まれ育った国の文化遺産をしっかりと持っているのである。自分のアイデンテティーと外見が余りに離れているような場合、どちら側に行っても中途半端な印 象しか与えず、どちらからも信用されないというのが現状である。この状況は、他の民族でも同様で、植民地では普通のことであるが、わが日本民族について は、他と比べ特にこの傾向が強い。こうしたことから、ブラジルに生を受けた二世、三世たちは、両国の狭間で居心地の悪い、屈折した思いに追い込まれると いったことが再三あったに違いない。

芸術家を目指す上西はこうした状況の中で自分を見つめ、自分しかできない自己表現を言葉の中に見出したのではなかろうか。彼女の作品には、民族的土壌の中 に逃げ込むことなく、自然界の姿を借りつつ、文字や記号を多用しながら、悩んだ末に見出した出口に向かって進んでいこうという気概が感じられる。今回名古 屋とクリチーバで発表する新作は、200年前の江戸地図の中から、市内を流れる川をそのフォルムとし、また書き込まれた地名や家紋などを記号として、得意 の連鎖形態の中に時間と空間とを表現していこうとする野心的なものである。

日系人は日本人ではないが、日本人には出来ない日本文化の翻訳者として貴重な存在であることを痛感した。


東京、2008/2/18